WOWOWの舞台モノ鑑賞第二弾。三谷幸喜演出による「90ミニッツ」。
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病院の一室、整形外科副部長の医師(西村雅彦)のもとに、ひとりの男(近藤芳正)が案内されてくる。9歳の少年が交通事故で担ぎこまれて手術を必要としており、男はその父親だった。手術には承諾書へのサインが必要だが、父親はそのサインを拒否。
90分以内に手術をすれば助かるという状況。頑なに手術承諾書へのサインを拒否する父親と、まずは命を守るべきだと手術をするよう説得をする医師…。それぞれが自分の“正しさ”をぶつけ、本性をさらけ出し、打開策を見出そうとする中、少年の容態は徐々に悪化。緊迫の度は刻一刻と深まっていく。
(WOWOW番組紹介より)
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人それぞれの「正義」があって、「唯一絶対の正義」などというものはない、という話。
こういう話を観て、両者の主張する正義が理解できたり、こういう時にどういう行動をとれるかって本当に難しい話だよなぁ、と思えるようになった自分が新鮮。
例えば、今回の話では僕自身がその場にいたらとるであろう正義は、大多数の人と同じく、迷いなく医師側だと思うんですが、かといって父親側の正義を「狂人の沙汰だ」と断罪して聞く耳を持たないって気分じゃなかったんですよね。
若い頃はこういう話を「頭でわかってた」だけで、実際にそういう場面に出くわすと頑なに自分の正義をふりかざして、それでお話にならないと会話終了、ってことが多かったですもん(まあ今でもそういう場面に出くわすとすぐ頭に血が昇って結果は一緒な気もしますが)。
そういうある意味でのバランス感覚だったり、器量が大きくなったというと言いすぎですが、そういう変化が自分のなかにおこったのは、やっぱり僕自身がここ数年で、マイノリティになる、という経験をしたことが大きいんだろうなぁと思ってます。
ドイツに住んで、「ドイツ人ではない」というだけでいやな思いをしたり、全く畑違いの業種に転職して、これまで正しいと思っていたやりかたを否定されたり。
マイノリティの掲げる正義って、ほとんどとりあってもらえないなぁ、という経験をできたことが、人生経験としてとてもよかったのだと思います。
まずはそういう境地に(ようやく)至った、ということが新鮮かつ少し嬉しい、ということ。
ただ、ここまでの話は単に僕が自己正義を振りかざすお子様だったというだけで、舞台を見ている多くの人は「これが世の中だよね」という感じだと思うのですが、やはりこの舞台の最大の見どころは、主役の2人が2つの正義の落とし所をどうやって見つけるか、だと思います。
落とし所というのは、単純に2つの正義の妥協点を見つける、という作業ではなくて、2つの正義が両立する第三の正義へと昇華する、というプロセス。
お互いがの正義に固執して物別れに終わるでもなく、しかし正義を捻じ曲げるでもなく。
舞台おもしろいなぁ。TVで見ても十分おもしろい。これははまりそう。
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わたしがマジョリティを嫌悪するのは、真の多数派など存在しないのに、ある限定された地域での、あるいは限定された価値観の中でのマジョリティというだけで、危機に陥った多数派は少数派を攻撃することがあるからだ。そしてマイノリティといわれる人々も、その少数派の枠内で、細かなランク付けをして、少数派同士で内部の少数派を攻撃することもある。
忘れることのできない写真がある。それは大戦前のドイツでユダヤ人たちがひざまずいて通りを歯ブラシで磨いているという写真だ。その人物がある宗教に属しているというだけで、その人物の人格や法的な立場とは関係なく差別するというのはもっとも恥ずべき行為だが、わたしたちは立場が危うくなるとそれを恥だと感じなくなる。
わたしはどんなことがあっても、宗教や信条の違いによって、他人をひざまずかせて通りを磨かせたりしたくない。それはわたしがヒューマニストだからというより、そういったことが合理的ではないというコンセンサスを作っておかないと、いつわたしがひざまずいて通りを磨くことになるとわからないからだ。
わたしたちは、状況が変化すればいつでもマイノリティにカテゴライズされてしまう可能性の中に生きている。だから常に想像力を巡らせ、マイノリティの人たちのことを考慮しなければならない。繰り返すがそれはヒューマニズムではない。わたしたち自身を救うための合理性なのだ。
(村上龍「恋愛の格差」より)
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