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「パレード」を読み終えた時の率直な感想は、「怖い」というものでした。
ただ、「何が怖いの?」とか「どう怖いの?」とか聞かれると、うまく説明がつかず、僕はしばらくなぜ「パレード」が怖いのかを考え込んでいました。
はじめは、「こんな世界があったら怖いな」という意味での怖さ、つまり、物語の登場人物が持つ異質な世界観が怖いのではないかと考えましたが、どうも腑に落ちない。
というのは、僕が感じた「怖さ」というのは、ホラーやSFのような、現実にはありえない世界について話すときの「怖さ」とは明らかに異質のものなのです。
もっと日常の中で、普段は気づいていなかったり、見えなかったりするけど、実はそうだった、という類いの、物事の本質をえぐり出されたような、そんな「怖さ」だと思うのです。
では、「パレード」がえぐり出した本質とは何なのか。
それはまさに、この物語が、少し異質な空間という体裁をとっていながらも、最後に表出する「距離感」だったり「無関心」だったりという人間の本性が、実際の現実世界と「実は何ら違いがない」ということなのではないかと思います。
例えば、他愛のない会話をしたり、時には醤油の貸し借りができるような間柄の隣人がいたとして。
仮にその隣人が何か犯罪を犯していたとして、そのことを何らかの形で知ったり疑ったりしたとしても、僕は「知らないふりをしていつも通りに接する可能性はあるな」と思うのです。
それは決して、隣人に「無関心」だからではなく、「変な事件に巻き込まれたくない」「自分の平和な日常を壊したくない」という意識によるもの。
また、例えば会社で、自分の隣の席の同僚が仕事がうまくいかなくて悩んでいたとして。
軽い悩みであれば、いろいろ話をしたり、気分転換に飲みに行ったりするかもしれません。
ただ、既に心が折れていたり、精神状態に異常をきたすほど病んでいたりした場合はどうかと言われれば、僕は「声をかけずに放っておく可能性はあるな」と思うのです。
これもやはり、「無関心」だからではなく、「自分にできることないしな」というような意識によるものからではないでしょうか。
つまり「パレード」は、人間は本質的に、たとえそれが隣人であろうと同僚であろうと「見て見ぬフリをする」ことができるということ、そして"ほんの少し"舞台を特殊な状況に設定することで、それがいかに残酷であるかを、鮮明にあぶり出していて、それを見せつけられたことで僕は「怖いな」と感じたのだと思います。
ネットワークビジネスにハマった友人について「アイツとはもう関わらないほうがいいよね」と話したり、宗教にハマった友人と徐々に連絡をとらないようにしたり、この種の人間の「防衛本能」は実はそこかしこにあふれています。
「人間って実はけっこう冷たいよね」というメッセージを、「冷たくもやさしくもなれるぎりぎりの関係」を舞台にして書くことで、これ以上ない衝撃をもってつきつけられたような気がします。
そういう意味で極めて秀逸な小説。
小説を読んだ後映画を観たのですが、映画を見て、↑で書いた「冷たくもやさしくもなれるぎりぎりの関係」ってところが随所で演出されていたのだな、とあらためて感じました。
何度か手を差し伸べようとしてるもんね、実は。
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