「魂の昭和史」と「永遠の0」


すべての日本人に感じてほしい魂の昭和史 (小学館文庫)すべての日本人に感じてほしい魂の昭和史 (小学館文庫)
(2002/07)
福田 和也

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永遠の0 (講談社文庫)永遠の0 (講談社文庫)
(2009/07/15)
百田 尚樹

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「もともと生まれた場所も肌の色も言語すらも異なるこの世界で、自分達以外の人間、宗教を排除しようというのが間違っている。混在したこの世界こそが神が我らに与えた世界なのに。人の心などもとから型にはまるはずもないだろうに‥」
とは、先日のブログに書いた通り惣領冬実の漫画「チェーザレ 破壊の創造者」第3巻でのチェーザレの台詞ですが、僕はこの言葉にひどく共感しています。
世の中には、人の数だけ正義があって、いわゆる現在まかり通っている「正義」というのは、単にこの世界の強者にとっての「正義」でしかない、ということを、なんとなくですが理解できるようになってきました。

高校の部活とか、大学のサークルとか、会社なんかもそうですよね。勝ち残った者にとっての「正義」がその組織の価値観になる。
途中で辞めたりした人が何を思ってたかなんてほとんど気にしないし、新しく入る人にも同じ価値観を持つよう洗脳していく。
僕は高校時代テニス部でしたが、地方都市の伝統ある公立高校のテニス部というのはものすごく体育会系で、精神論全盛かつヒエラルキーに厳しく、高校1年の1年間は球拾いをするばかりでラケットを握らせてもらえませんでしたし、学校内はもちろん、町中で先輩に会っても大声で挨拶をするよう指導させられていました。
僕は単純というか、自分の軸も持っていなかったので、「高校の部活とはこういうものなのか」と思ったし、「途中で辞めるのは逃げること」というような風潮もあったりで、結果的に3年間続けましたが、今思うとこのやり方って1つの方法論ではあっても、「唯一の正義」ではないですよね。

会社なんかも、マネジメントや古株にとって居心地がいい価値観が「正義」になってて、中途で入ってきた人がうまく馴染めなかったり、異質なものを排除したり、ということはどこの組織でもあると思います。
それ以外でも、資本主義vs社会主義、キリスト教vsイスラム教、結果重視vsプロセス重視、同じような話はそれこそいくらでもあります。
結局いろんなところでいろんな正義が戦って、勝ち残った1つの正義が、その時代、その組織・集団の価値観となって、そこで勝ち残れなかった無数の正義が語られることはないし、時には悪徳、穢れとして扱われるのです。
さらに、勝ち残った正義は、その価値観でもって、歴史をも書き換えたり、解釈を変えたりする。

なので、何かについて考えるときは、僕は自分の価値観にはめこむのではなく、相手の価値観を通して考えようと試みるようになりました。
これがなかなか難しくて、あまり程度がすぎると自分の軸足がぶれたり、物事に意見をできないくらい頭がこんがらかってしまうのですが。。最近はそれを楽しんでます。

すっかり前置きが長くなってしまいましたが。
日本の「昭和史」というのは、まさに戦前の価値観が戦後の価値観で塗り替えられた時代。
ともすれば我々は、戦後の価値観で戦前、または戦時中の日本を評してしまいがちですが、それは強者の論理。
戦前、戦時中の正義と価値観とはどんなものだったのか、それを戦後の価値観を頭から捨てて理解しようとすることは、日本という国と日本人を知る上での大きなポイントになるし、そこに共感できないまでも理解が進めることが、チェーザレの言う「混沌の世界で生きる」1つの道しるべとなるのではないかと思ってます。

「すべての日本人に感じてほしい魂の昭和史」「永遠の0」は、どちらも戦前、戦時中の日本人が何を考え、どういう思いで戦争を進めていったかが、現代の文脈からは語られない角度から描かれています。
読めば読むほど自分がいかに自分の文脈で物事を見ていたか思い知らされます。

自分の生きている世界と全く違う世界に思考を広げていくことが今の僕には必要です。
昭和史も、もう何冊かは読みたいと思ってます。

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