「奇貨居くべし」に学ぶ5つの人生訓(1)



奇貨居くべし 天命篇 (中公文庫)奇貨居くべし 天命篇 (中公文庫)
宮城谷 昌光

中央公論新社 2002-04
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少し前にも書きましたが、宮城谷昌光の「奇貨居くべし」がようやく読み終わりました。

実に人生訓に富んだ傑作で、「本からの学び」という意味では「孟嘗君」以上ではないでしょうか。
孟嘗君は貴賓に生まれ、生まれながらの大才、という印象ですが、呂不韋は商人の子として生まれ、家族の愛から遠かったり、奴隷になったり、命を落としかけたり、苦難の連続の中で成長していくので、大業を成し遂げる人と平凡に生きて終わる人との違いが浮き彫りになっていたように感じました。
まさに座右の書。何度も読み返すべき本だと思います。

呂不韋の生きかたの中で、僕が特に肝に銘じておくべきだと感じた5つの人生訓を書き残しておきたいと思います。
相当長くなりそうなので、1つずつ。


1: 人を活かすことが自分を活かす

孟嘗君をみて、呂不韋ははじめて人に接することのおもしろみをおぼえた。ことごとしさをまったくあらわさずに、人を惹きこんでゆく心のありかたを我儂のものにすれば、人生はずいぶん豊かなものになるであろう。張苙が悍馬であるとすれば、それを馴らしてみたい。おのれの性質に適わぬ者をしりぞけ、あるいは避けつづけていては、いつまでたっても人としての度量はひろがらない。


「失礼ですが、蔡氏は、他人に与えずして自己を富まそうとしているようにみうけられます。無知といわれる農人でも、種を播き、水をあたえねば、穀物を得られぬことを知っております。虚空に種をとどめ、水をやることを吝しんでいては、どうして天地のめぐみを得ることができましょうや」(呂不韋)

藺相如と黄歇は国家のためにおのれを殺してもかまわぬ、いわゆる忠義の姿勢を保持している。しかし孟嘗君と魏冄は、おのれを活かすことが人を活かし、国家をも活かす、という心の構えかたをつらぬいている。死ぬということに、誉れも、美しさも、みない。
「活人」
とはそういうことではないか。人と歓びあうことが精神の基礎である。

儒家の教えは、命令と禁止のくりかえしである。ああせよ、こうしてはならぬ、ということばを発する力の源には大衆の知力を低くみる支配者の伝統が生きている。だが、道家は命令も禁止もしない。道を示すだけである。その道を歩こうとすれば、とたんに変幻する道である。呂不韋は孫子から多くのことを学んだが、貴門のうちで家臣を頤使するわけではない呂不韋は、巷にあって道家の教えにそった生きかたをえらんだ。人を救うことによって人に救われ、人を富ますことによっておのれも富んだ。こまかくみれば、物をあたえて、人を得たのである。人ははじめから広い世界をもっているわけではない。呂不韋もおそらくそうで、しかし呂不韋は人を得ることによって、世界を広げてきたのではないか。

まず1つめは、なんといっても「人を活かす」です。これは、「奇貨居くべし」だけでなく「孟嘗君」でも「管仲」でも共通していて、宮城谷小説が理想とする人の生きかたの核となる部分のように感じます。
「人のために生きれば自分も生きたことになり、加えて富も舞い込む」というのは、そもそものビジネスの意義が世の中をよりよくすることにあることを思い返すと当たり前のことなのですが、当たり前だけに忘れてしまいがちで、つい自分中心に考えてしまいがちなんですよね。。
ビジネスの世界では、日々様々な課題に対して「何が正しい意思決定なのか」「失敗のリスクをどうコントロールするか」に知恵をしぼるわけですが、僕はある時から、ビジネス上の意思決定に正解はなく、であるがゆえに、「自分が世界とどう向き合いたいか」「世界をどう変えたいか」を常日頃から考えることが重要で、意思決定とはその価値観を世に問うことであり、それが社会人の醍醐味だ、と思ってます。

「奇貨居くべし」では、その重要さを再認識させられた思いでした。

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